体罰とは、教育用語で40年前までは罰として、お尻をたたいたり、座らせたり廊下で立たせたりしていた。
その延長上で"体で教える"などのことは、部活の指導として容認されている雰囲気はまだあるのではないでしょうか?
少なくとも、私の高校時代の部活では、うさぎ跳びは普通にやっていたし、水を飲むことは厳禁でした。
"根性だ""気力だ"と科学的ではない指導を受けていました。
福祉という仕事は、もっともビジョナリィーな仕事です。
理念や哲学というその行為をする意味については共有化しておかなければ乱暴になります。
たたく、蹴る、わいせつな行為、ネグレクト、罵声や傷つくことを言うことや、本人の所得保障である年金の搾取などは、虐待というより犯罪行為です。
虐待をする人はこのことの自覚はあるのでしょうか?
私たちの仕事はどのようなことなのでしょうか?
障害を持たれている方々は、私たちと比べて何倍もの迫害体験を受けてきているといわれています。
「生きにくさ」があるとしたら、彼らの問題ではなくこの社会が生み出してきたものなのです。
私たちの仕事は、幸福感を感じられる豊かな暮らしに向かうための支援です。
社会の中の様々な軋轢や差別から盾になるという役割があるにもかかわらず自らがその要因になってはいけないのです。
不完全な人間という存在が、他者とかかわりを通して相手が幸福を感じて頂く、それは自らを磨き、磨き、磨き続け、相手が輝いたときに自分がようやく輝くという法則の連続なのです。
人は他者を通してでなければ自分を判断できないのです。
相手が辛く苦しそうな時は、自らの優しさを最大限に発揮する出番なのです。
相手がうれしそうに微笑んでいるならば最大化して喜びを倍増するチャンス
なのです。
すべての悩みは人間関係に帰結し喜びも人間関係の中にあります。
そのためになすべきことの最初は、愛着関係や信頼関係という安全な関係を信じてもらうことから始まります。
そして、このことが福祉の目的でもあるのです。
虐待は相手を不幸にし、虐待をしている人も幸せではないのです。
相手をしあわせにするスキルは勉強しなければなりません。
もっと大事なのはスキルを行う"あなた"のあり方が問われます。
私は福祉従事者あり方の学びのために、フロー理論やアンガーマネジメント、そしてメンタリングマネジメントなどポジティブ心理学を紹介させて頂いています。
そして、このようなことを学ぶことによりもっとも恩恵を受けているのは私自身です。
もう気が着かれていると思いますが、
どんな過去があれ、今がしあわせであるならば、過去は解釈にしか過ぎません。
未来をしあわせなものにするのかは、自らの意思なのです。
未来は意思です。
その未来から"今なすべきことを考える"それが"福祉人"の生き方です。
(職員向けメッセージより)